史跡
伝土肥椙山巌窟
昭和30年11月1日神奈川県指定
所在地: 湯河原町鍛冶屋955
治承4年(1180)、源頼朝は、平家討滅、源氏再興の兵を挙げましたが敗れ、土肥実平に導かれて土肥椙山に隠れました。
そのとき、源頼朝は、髻(※)の中から小さな観音像を取り出して“或る巌窟”に置きました。後日この観音像は再び頼朝の手に戻りましたが、その巌窟として県の史跡に指定されています。
※ 髻(もとどり) 髪の毛を頭の上で束ねた部分
所在地: 湯河原町鍛冶屋955
治承4年(1180)、源頼朝は、平家討滅、源氏再興の兵を挙げましたが敗れ、土肥実平に導かれて土肥椙山に隠れました。
そのとき、源頼朝は、髻(※)の中から小さな観音像を取り出して“或る巌窟”に置きました。後日この観音像は再び頼朝の手に戻りましたが、その巌窟として県の史跡に指定されています。
※ 髻(もとどり) 髪の毛を頭の上で束ねた部分
土肥椙山巌窟内観音像群
昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地: 湯河原町鍛冶屋953
これらの石仏は、江戸時代この地域の人達が近親の死者への供養として、長期にわたり継続して奉納してきたものであり、場所は昔、源頼朝が隠れたと伝えられる「しとどの岩屋」の中やその近くに置かれています。
この岩屋は、古くから山岳宗教の修行の場所で、聖地としてあがめられてきた宗教的な歴史を知る上で貴重な資料です。
所在地: 湯河原町鍛冶屋953
これらの石仏は、江戸時代この地域の人達が近親の死者への供養として、長期にわたり継続して奉納してきたものであり、場所は昔、源頼朝が隠れたと伝えられる「しとどの岩屋」の中やその近くに置かれています。
この岩屋は、古くから山岳宗教の修行の場所で、聖地としてあがめられてきた宗教的な歴史を知る上で貴重な資料です。
明神の楠
昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地: 湯河原町宮下355の2
五所神社は、古くから五所明神又は五所大明神と称し、その参道は、明神の楠のそばを経て、千歳川まで続いていました。参道は、正保3年(1646年)当時入谷村といわれたこの地方の宮上と宮下を分ける分境線でもありました。神社を参拝するときには、千歳川で禊を行ったものです。参道には、楠が数多く生い茂っていましたが、現在は、県道わきにある「明神の楠」と境内に数本残すのみです。この楠は、古木のため、幹の中が一部朽ちてコンクリートで補強されていますが、その中に地蔵尊が安置されています。
根回り15.6m 樹高17.5m 樹齢800年以上(推定)
所在地: 湯河原町宮下355の2
五所神社は、古くから五所明神又は五所大明神と称し、その参道は、明神の楠のそばを経て、千歳川まで続いていました。参道は、正保3年(1646年)当時入谷村といわれたこの地方の宮上と宮下を分ける分境線でもありました。神社を参拝するときには、千歳川で禊を行ったものです。参道には、楠が数多く生い茂っていましたが、現在は、県道わきにある「明神の楠」と境内に数本残すのみです。この楠は、古木のため、幹の中が一部朽ちてコンクリートで補強されていますが、その中に地蔵尊が安置されています。
根回り15.6m 樹高17.5m 樹齢800年以上(推定)
土肥一族の墓所
昭和30年11月1日神奈川県指定
所在地: 湯河原町城堀252 城願寺境内
城願寺は、土肥実平を祖とする土肥氏の菩提寺で、土肥の館の持仏堂の跡に建ち、宝篋印塔、多重塔など数十基が立ち並ぶ土肥一族の墓所があり、各種形式、各年代にまたがる関東有数のものとして県の史跡に指定されています。実平の実績は、石橋山の合戦以来いくつもの合戦に従い、平家討滅の道を開きました。
所在地: 湯河原町城堀252 城願寺境内
城願寺は、土肥実平を祖とする土肥氏の菩提寺で、土肥の館の持仏堂の跡に建ち、宝篋印塔、多重塔など数十基が立ち並ぶ土肥一族の墓所があり、各種形式、各年代にまたがる関東有数のものとして県の史跡に指定されています。実平の実績は、石橋山の合戦以来いくつもの合戦に従い、平家討滅の道を開きました。
土肥城址 (土肥城山)
平成16年1月1日湯河原町第4次(第1期)指定
所在地: 湯河原町字城山401
製作年代: 室町時代~戦国時代
所在地: 湯河原町字城山401
製作年代: 室町時代~戦国時代
吉浜柏坂の道標
平成16年1月1日湯河原町第4次(第1期)指定
所在地: 湯河原町吉浜字柏坂4のロ地先
製作年代: 江戸時代
所在地: 湯河原町吉浜字柏坂4のロ地先
製作年代: 江戸時代
この情報に関するお問い合わせ先
教育委員会:社会教育課
電話番号:0465-62-1125 FAX番号:0465-62-1188

