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史跡

ページID:0002548 更新日:2021年12月1日更新 印刷ページ表示

肥椙山巌窟(どいすぎやまがんくつ)

伝土肥椙山巌窟

昭和30年11月1日神奈川県指定
所在地:湯河原町鍛冶屋955

吾妻鏡(あづまかがみ)によると、治承4(1180)年、源頼朝(みなもとのよりとも)は、平家討滅、源氏再興の兵を挙げましたが、石橋山(いしばしやま)の合戦で敗れ、土肥(どい)実平(さねひら)に導かれて土肥椙山に隠れました。
そのとき、源頼朝は、髻(もとどり)(※)の中から小さな観音像を取り出して“ある巌窟”に置きました。後日この観音像は再び頼朝の手に戻りましたが、その巌窟として県の史跡に指定されています。
※ 髻(もとどり) 髪の毛を頭の上で束ねた部分

土肥(どい)一族の墓所

土肥一族の墓所

昭和30年11月1日神奈川県指定
所在地:湯河原町城堀252 城願寺(じょうがんじ)境内

城願寺は、土肥(どい)実平(さねひら)を祖とする土肥氏の菩提寺で、土肥の館の持仏堂の跡に建ち、宝篋印塔(ほうとういんとう)、多重塔など数十基が立ち並ぶ土肥一族の墓所があり、各種形式、各年代にまたがる関東有数のものとして県の史跡に指定されています。実平の実績は、石橋山の合戦以来いくつもの合戦に従い、平家討滅の道を開きました。

土肥椙山巌窟内観音像群(どいすぎやまがんくつないかんのんぞうぐん)

土肥椙山巌窟内観音像群

昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地:湯河原町鍛冶屋953

これらの石仏は、江戸時代この地域の人達が近親の死者への供養として、長期にわたり継続して奉納してきたものであり、場所は昔、源頼朝(みなもとのよりとも)が隠れたと伝えられる「しとどの岩屋」の中やその近くに置かれています。
この岩屋は、古くから山岳宗教の修行の場所で、聖地としてあがめられてきた宗教的な歴史を知る上で貴重な資料です。

明神の楠(みょうじんのくすのき)

明神の楠

昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地:湯河原町宮下355の2

五所神社は、古くから五所明神または五所大明神と称し、その参道は、明神の楠のそばを経て、千歳川まで続いていました。参道は、正保3(1646)年、当時入谷(いりや)村といわれたこの地方の宮上と宮下を分ける分境線でもありました。神社を参拝するときには、千歳川で禊(みそぎ)を行ったものです。参道には、楠が数多く生い茂っていましたが、現在は、県道わきにある「明神の楠」と境内に数本残すのみです。この楠は、古木のため、幹の中が一部朽ちてコンクリートで補強されていますが、その中に地蔵尊が安置されています。
根回り15.6m 樹高17.5m 樹齢800年以上(推定)

黒曜石(こくようせき)採掘遺跡

黒曜石採掘遺跡

昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地:湯河原町鍛冶屋440

湯河原町鍛冶屋の瑞應寺(ずいおうじ)の裏山一帯を尾崎山といいますが、このあたりには黒曜石の破片が落ちていたり、かたまりが埋まっていたりします。黒曜石は、原始時代の人が打製石器の材料として使ったもので、火山帯にしか産出せず、その場所はごく限られています。関東周辺では、長野県の和田峠、伊豆の天城峠や神津島、箱根の芦ノ湖付近と湯河原の鍛冶屋にしかありません。関東の遺跡から黒曜石で作った石器がよく発見されています。湯河原は、その原産地の一つであった可能性が十分考えられます。

土肥城址 (土肥城山)

土肥城址(土肥城山)の画像

平成16年1月1日湯河原町第4次(第1期)指定
所在地:湯河原町字城山401他
製作年代:室町時代~戦国時代

土肥城址は、箱根外輪山の主峰大観山(たいかんざん)から相模灘に向かって下降する尾根の中腹にありました。そして、その西寄りの山すそのJR湯河原駅付近に、土肥一族の居所である土肥館があったと考えられています。
城址は、六層からなる連郭(れんかく)式の城郭で、最下部の第六連郭部分で約240m、さらに遠構(とおがまえ)と考えられる堀切までは約150mあり、全長で約390mに及びます。
主郭から第6郭までの約36mの高低差を利用して階段状に郭を連結させ、急峻で要害性の高い連郭状尾根城としての特徴を示しています。
中世における城郭の発展を知る上からも貴重な遺跡です。