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建造物・石造物・歴史資料

ページID:0002547 更新日:2022年3月31日更新 印刷ページ表示

愛光商会吉浜寮(あいこうしょうかいよしはまりょう)

愛光商会吉浜寮

平成18年3月2日 国登録
所在地:湯河原町吉浜1

ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルが設計した東京帝室博物館(現東京国立博物館)は、関東大震災で倒壊し、解体されましたが、土田卯三郎医学博士(大正天皇主治医)が買い受け、その一部を湯河原に移築しました。
室内は、設計者であるコンドル初期の特徴であるインド・イスラム様式の階段手すりや東京帝室博物館で使われていた扉など、当時そのままに移築され、大切に保存されています。
建物は、桁行11m、梁間9mの規模で、木造3階建、切妻造(きりつまづくり)、鉄板葺(てっぱんぶき)で、妻壁(つまかべ)をうだつ状に立ち上げています。外壁をモルタル塗の大壁ですが、2階、3階正面は、持ち送りで柱形を前に出し、上げ下げ窓を連続して配しています。

尾崎家住宅

徳利亭(尾崎家住宅)

平成22年1月15日 国登録
所在地:湯河原町宮上261-38

徳利亭は、もとは横浜の書籍・文具商の老舗・有隣堂(ゆうりんどう)の初代社長であった松信大助氏の別荘で、平成15年に尾崎氏の別荘となり、徳利亭と号しました。
主屋は、切妻造(きりつまづくり)・桟瓦葺(さんがわらぶき)のL字型の棟の1部に寄棟造(よせむねづくり)の2階を載せ、東側に入母屋造(いりもやづくり)の寝室と中2階の茶室、西側に入母屋造・銅板葺の玄関を突き出した構成です。

上野屋(うえのや)

上野屋

平成22年1月15日 国登録
所在地:湯河原町宮上616-1他

「上野屋」は、湯河原で最も古い歴史を持つ温泉旅館の一つです。創業は江戸時代で、幕末期の湯宿の一つとして数えられます。明治28(1895)年発行『相州土肥湯河原温泉誌』には「村内の温泉宿は総て十二戸あり」と12軒の旅館の名がありますが、その中に上野屋(室伏愛次郎)も記されています。
本館は、木造5階建です。当初は、鉄板葺(てっぱんぶき)入母屋造(いりもやづくり)の大屋根を持つ客室棟で、山側の傾斜地に沿って木造4階建てとして建設されました。その後すぐに、長逗留をしていた銀座の大店の常連客の希望で、5階部分が離れとして増築されました。

伊藤屋旅館(いとうやりょかん)

伊藤屋

平成26年4月25日 国登録
所在地:湯河原町宮上484-1他

「伊藤屋」は、明治21(18898)年に伊藤周造が政府の高官を宿泊させる目的で創業した旅館です。本館は、総二階の楼閣風(ろうかくふう)建物で、入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)の屋根をあげ、三寸六分角柱の細い桧(ひのき)柱と繊細な組子入(くみこいり)硝子(ガラス)障子(しょうじ)を多用した近代和風建築です。棟札(むなふだ)により大正15(1926)年に上棟されたことがわかります。特に主室は、違棚(ちがいだな)と付書院(つけしょいん)のある床脇の背面に狭間格子入の硝子障子を立てた明かり窓を付けるなど、他に見られない特徴をもっています。

藤田屋旅館本館(ふじたやりょかんほんかん)

藤田屋

平成26年12月19日 国登録
所在地:湯河原町宮上495

「藤田屋」は、明治44(1911)年の「旅館要録」によると開業は明治15(1882)年で、現在営業を続ける中でも特に歴史の古い温泉宿の一つです。
本館は、木造2階建ての西棟・東棟とその中央の木造平屋の玄関棟から成ります。天井や障子の組子に意匠が凝らされており、温泉町の歴史的景観を形成する重要な要素と位置付けられます。

五所神社本殿(ごしょじんじゃほんでん)

五所神社本殿

平成7年2月14日神奈川県指定
所在地:湯河原町宮下359-2 五所神社境内

神奈川県内にある多くの社寺建造物は、江戸時代以降に建てられたものが大部分を占めています。その中で、五所神社本殿は、室町時代後期の建立であろうとされています。本殿は、三間社(さんげんしゃ)流造(ながれづくり)で、屋根は、柿葦(こけらぶき)でした。昭和57年再建の入母屋造(いりもやづくり)拝殿後部と接続していますが、もとは独立した本殿でした。

醍醐院(だいごいん)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)

醍醐院宝篋印塔

昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地:湯河原町福浦117

明和8(1771)年に造立された宝篋印塔で、江戸時代の宝篋印塔は、大形のものが多く、主に供養塔としてお寺の境内に建てられました。醍醐院(だいごいん)のものもそうした石塔のひとつで、現熱海市泉にある保善院(ほぜんいん)の住職の協力を得て、当時の福浦村の高橋という人が建設したものです。石は、地元の小松石を使用しています。塔身には彫刻がほどこされ、この地方に優秀な石工がいたこともわかります。波の図形なども使われていて、漁村らしい雰囲気をただよわせています。

小道地蔵堂の宝篋印塔(こみちじぞうどうのほうきょういんとう)

小道地蔵堂宝篋印塔

昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地:湯河原町吉浜1

この宝篋印塔の材料となっている小松石は、硬く、耐久性、耐火性にすぐれ、みがくと独特の光沢を発します。江戸時代に江戸城の修理などで大量に使われたことから有名になり、建築用材として人気が高まりました。
この石塔が設置されている小道地蔵堂は、星ヶ山中腹にあったものを、江戸時代に現在の場所に移築したものです。一部表面がいたんでいる部分はありますが全体によく保存されています。この石塔には、この地蔵堂の由来などが書かれています。当時の石塔としてもかなり大形のもので、吉浜村が石材業にかかわっていたこと、優秀な石材加工者がいたことを示しています

與謝野寛・晶子連理歌碑(よさのあきら・あきこれんりかひ)

與謝野寛・晶子歌碑

昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地:湯河原町吉浜1871番地の1

與謝野寛(1873~1935年)・晶子(1878~1942年)歌人、詩人。
與謝野夫妻は、ともに進歩的な考えを持ち、従来の歌風にこだわらず、人間の情熱的な生き方をおおらかに歌いあげ、自身もそのような生き方をしました。
当時、與謝野鉄幹(寛)らが出した雑誌「明星」に挿絵を描いていた真鶴在住の三宅画伯は、彼の友人有賀(ありが)精(つとむ)氏所有の真珠荘を夫妻に紹介し、二人は昭和7年から17年までの10年間、幾度となくここを訪れ、その都度1週間から10日間滞在しました。この碑に刻まれた歌は、この地で二人が詠んだ数千首の中から選ばれました。
 「光つつ 沖をいくなりいかばかり たのしき夢を載する白帆ぞ 寛」
 「吉浜の 真珠の荘の山ざくら 嶋にかさなり海にのるかな 晶子」

聖ヶ窪の宝篋印塔(ひじりがくぼのほうきょういんとう)

聖ケ窪の宝篋印塔

昭和54年4月1日湯河原町指定
所在地:湯河原町宮下697番地の1

この宝篋印塔は、室町時代に造立されたと推定されています。
宝篋印塔の名称の起こりは、唐の高僧不空(ふくう)三蔵(さんぞう)の訳による宝篋印(ほうきょういん)陀羅尼経(だらにきょう)という経文を塔の中に納めて、礼拝供養したことによります。塔の構造は、下部より基礎・塔身・笠・相輪の四つから成っています。実際に石の塔が造られたのは、鎌倉時代以降のことで、武将や豪族の供養塔・墓碑として使われました。鎌倉時代のものは、一般的に規模が大きく安定感がありますが、室町時代になると小さく細長い形になってきます。
聖ヶ窪の宝篋印塔のある丘は、五輪山(ごりんさん)と呼ばれ、大正末期まで近隣の人々が集まって祭礼を行っていました。この塔は、民間信仰と仏教の伝承を知る上で貴重な資料です。また、構造や歴史の点でも、城願寺(じょうがんじ)の土肥一族の墓所にある宝篋印塔に匹敵するものです。

五郎神社の本殿

五郎神社本殿

平成16年1月1日湯河原町第4次(第1期)指定
所在地:湯河原町鍛冶屋字宮の森725 五郎神社境内
製作年代:17世紀後期

五郎神社は、湯河原町の北東部、鍛冶屋地区に位置している神社です。
南に傾斜した境内は上下2段になり、前方も広場状になっています。境内には楠の大木が多く、小字(こあざ)を宮の森といいます。
現在の祭神は金山彦尊(かなやまひこのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)の2柱です。
本殿は、上段奥に立ち、前方の3間に2件の拝殿と接続していますが、もとは独立し、様式上から17世紀後期ごろのものとみられます。
一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で三方に束で受けた刎高欄(はねこうらん)付きの切目縁(きりめえん)を廻し、正面は幣袖(へいじく)付板扉両開きになっています。

小道地蔵堂(こみちじぞうどう)の明和2年の碑

英潮院地蔵堂(小道地蔵堂)の明和2年の碑

平成16年1月1日湯河原町第4次(第1期)指定
所在地:湯河原町吉浜字柏坂1 英潮院(えいちょういん)地蔵堂内
製作年代:明和2(1765)年

この明和2(1765)年の造立された碑は、吉浜の東部、海岸近くにある英潮院地蔵堂(通称小道(こみち)地蔵堂)の西南側に位置しています。
この碑は、碑文が伝えるように、小道中興開基量外器(りょうがいき)禅師の略伝及び雪後操(せつごそう)公の建塔の由来と源平盛衰記が記す石橋山(いしばしやま)の合戦に敗れた源頼朝と従臣らが隠潜した小道地蔵堂の由来を受け継ぎ、頼朝による造営、文永2(1265)年の炎上と現地に移ったことなどの地蔵堂の縁起を刻んでいます。
この碑は、小道地蔵堂の由来や当地方に伝承される源頼朝説話などを物語る貴重な歴史資料といえます。

吉浜柏坂(かしわざか)の道標

吉浜柏坂の道標

平成16年1月1日湯河原町第4次(第1期)指定
所在地:湯河原町吉浜字柏坂4のロ地先
製作年代:江戸時代(推定)

この道標は、吉浜の通称「茶屋道(ちゃやみち)」の入口にあります。「茶屋道」は、江戸時代に脇街道(脇往還(わきおうかん))として位置付けられた「根府川(ねぶかわ)通り」の一部であり、俗に「小田原道」または「熱海道」と呼ばれていました。
このあたりが「茶屋道」と呼ばれているのは、坂の上に茶屋があり、旅人が休息したことに由来します。茶屋のあったところは、海岸の眺めがよく、また、福浦の竜宮岩(りゅうぐういわ)(関東大震災で崩落)なども一望できたと思われます。以前は、一部が階段であったといいます。
この道標は当初に設置された場所から変わっていないと推測され、江戸時代のこの地域の交通や人々の生活を知る上から歴史的な史料価値が高いものです。

脇海道(脇往還):江戸時代の五街道以外の主要な街道