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2018年09月06日(木)忠州市レポート(名将軍 林慶業(イムギョンオプ))

ページID:0005988 更新日:2018年9月6日更新 印刷ページ表示

入り口案内板


忠烈祠(チュンヨルサ)入口案内板
 

入り口



忠烈祠(チュンヨルサ)入口

 

林慶業将軍を祀る本堂入口

林慶業将軍を祀る本堂入口

 

林慶業将軍を祀る本堂

林慶業将軍を祀る本堂

 

林慶業将軍の肖像画



林慶業将軍の肖像画

王から贈られた林慶業将軍の業績を讃える石碑



王から贈られた林慶業将軍の業績を讃える石碑

王から贈られた林慶業将軍の業績を讃える石碑



王から贈られた林慶業将軍の業績を讃える石碑

林慶業将軍の遺品を展示する資料館



林慶業将軍の遺品を展示する資料館

資料館内部


資料館内部

 

  忠州市にはたくさんの文化遺産と歴史に名を刻む人物達の故郷でもあります。
  今月は朝鮮王朝時代、16代仁祖(インジョウ)王の時、名将軍として名高い林慶業(イムギョンオプ)将軍についてご紹介いたします。

  林慶業将軍は1594年、忠州市達川(タルチョン)で出生し、幼い時から学問と武術が人並みはずれて秀でていたと言われています。
 
  1618年には弟の林嗣業(イムサオプ)と一緒に武科(武芸と兵書によく通じてる人を選抜した科挙で国を治める官職試験)に合格し、1624年には李适(イガル)の乱を平静に治め国に功労をたて振武原從功臣(ジンムウオンジョンコンシン)1等という位を与えられ、頭角を現しました。
  1630年には平壤中軍で劒山(コンサン)城と龍骨(ヨンゴル)城を修築すると共に一方では椵島(カド)で駐屯していた明の国の都督、劉興治(ユフンジ)の軍使を監視し、蠢動を鎮めました。
  1633年には清川江の北側の防御を担当して清北の防御使として白馬山(ぺクマサン)城と義州(ウイジュ)城を修築し、国防を強化し、孔有徳(コンユドク)などの明の国を反逆し後金(フグン 清の国)に密通している勢力を討伐しました。それにより、明の国から總兵(チョンビヨン)という官位が与えられました。

  林慶業将軍は、壬辰倭亂(インジンウエラン)の時、明の国が軍隊を送り朝鮮を守り良い関係を築いてきた明の国のため、勢力を強め攻めてくる清の国から祖国を守るため、反清親明の確固な信念のもと、清の国に対抗し、すべての努力をしましたが志を貫くことができず清の国に捕らわれの身になりました。
  後に明の国が清の国に陥落されたが林慶業将軍の曲げることを知らない忠節を尽くす姿は、清の国の人々をも敬服させたと言われています。
 
  明の国へ亡命し、帰国後、沈器遠(シンギウオン)の謀反事件に巻き込まれ1646年に恨多い53年の生涯を終えました。
  林慶業将軍は、祖国の大危機のたびに、祖国の平和のため忠誠を尽くし信念を貫いた生涯でした。

  後に林慶業将軍の業績と遺物を祀る、忠烈祠(チュンヨルサ)が建立され、忠愍公(チュンミンコン)という諡号(贈り名)が与えられました。
  忠烈祠(チュンヨルサ)は林慶業将軍の故郷である忠州市達川洞(タルチョンドン)の静かな町の片隅に美しい自然の景観のなかに建っています。

2018 年8月30日 執筆