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2019年09月18日(水)忠州市レポート(朱蒙)

ページID:0006124 更新日:2019年9月18日更新 印刷ページ表示

朱蒙1

こんにちは。
 朝夕韓国では、もう秋の気配を感じる心地良い風が吹き、コウロギや鈴虫の奏でる音が日中の忙しさを癒してくれる今日この頃です。
 韓国で数年前放映された、朱蒙(チュモン)というドラマを知っていますか?
 全81話作で、『三国史記』などの神話を元に、高句麗初代王とされる朱蒙(東明聖王)を主人公として製作された韓国の歴史物語(ファンタジー)の内容でした。
 当時なんと平均視聴率40%以上で、韓国テレビドラマ史上4位の記録だったそうです。
 今月はその昔、アジアを広く征服し700年間統治したという国、高句麗が残した石碑を紹介いたします。
 忠清北道中原郡(現在の忠州市。1995年改称)中央塔面龍田里に忠州高句麗碑(ちゅんじゅこうくりひ)があります。
 忠州市が位置する忠清北道は4~7世紀頃に新羅、百済、高句麗の三国が争った地域でした。
 忠州は観半島全体からみるとちょうど中間の位置にあり、南漢河の水路があるため、流通手段のとても良いところとして発展し、各国が忠州を自分の国の領土にしたいと戦いが耐えなかった土地です。
 支配してくる国がよく変わるため忠州の人達は土地がら、今でもあまり本音を言わないとも聞いたことがあるほどです。
 満州の南部で建国した高句麗が5世紀に入りさらに勢力を伸ばし、南下して朝鮮半島の中部まで領域を広げました。
 当初は百済の勢力下だった忠州も、高句麗からの侵攻を受け高句麗の領土となり、5世紀中後半に建てられた石碑と推定されています。
それは当時の高句麗と新羅の関係を知ることができる非常に貴重な石碑として、韓国の国宝第205号に指定されています。
この貴重な1500年以上にわたり静かに眠っていた石碑を発見したのは、名のないアマチュアの歴史調査チームでした。
 新羅、百済、高句麗の三国が接した独特の文化を持つこの忠州地域に沢山の歴史の跡があるはずだと情熱を注ぎ、集中的に調査、発掘に全力を尽くしたといいます。
 学生から教師や会社員などの人から結成された歴史調査チームは、忠州で様々な歴史の遺物を発見しました。
 調査団は、忠州の各地を一年かけて調査し続け、最後の調査に向かった日、遂に立石村の入り口に放置されていた石碑が、ただの石碑ではなく歴史的価値を持つ遺物として発見したのです。(1987年)
 立石村の前を通りかかった時、団員の一員があの石は何か不思議だとして車を止めたそうです。
 当時、村の入り口に石が立っていたので、そのまま立石村とつけられたそうですが、昔は村の入り口に村の名前を刻んで建てた石碑が多くあり、価値のあるものとは誰も知ることはできませんでした。
 石碑はこけが沢山ついていて何も見えない状況でしたが西陽に照らされた石碑からかすかに「大王」という文字がみえたそうです。
 後に本格的な調査が始まり韓国に残っている唯一の高句麗碑である事がわかりました。
 朝鮮半島内に勢力を拡大した長寿王の時代、高句麗が新羅を従属させていたことを示す貴重な資料であり、2012年には忠州高句麗碑展示館が開館され室内に保存・展示されています。
 館内には高句麗の遺産や説話、生活像など様々な内容が展示されていて、夏休みには歴史に興味ある家族ずれが全国から沢山訪れたそうです。
2019年8月30日

朱蒙

 

朱蒙3

 

朱蒙4

 

朱蒙5

 

朱蒙6

 

朱蒙7

 

朱蒙8


朱蒙9